東日本大震災によせて・・・
施設本館内部。 右の写真は私がいた部屋。地震がおきた時、すぐに中庭へ避難し、
津波が来るというので8号館2階へと避難した。
その日、一晩をラジオだけを頼りに
職員や受講生達と過ごした教室。
次の日の昼前、津波警報はまだ出ていたが、
水位の下がったことを確認し、脱出を図った階段。
デスクを足がかりにして外へ。
水位はおよそ170cmくらいまで達していた。
この施設を脱出すると、路上には車、コンテナ、瓦礫、ボンベ、丸太、材木、壊れた家などありとあらゆるものが水につかって積み上げられていた。年配の女性は道にしゃがみ込み、避難しようと言っても家に帰る、家がない、と錯乱状態で、受講生の誰かがその人を背負い、避難して行った。
途中、患者を避難させるために移動していた偶然出会った看護婦の友人。
水を抜け出たところで待機していた多賀城市の職員。
買い出しの長い列に並んでいるときに見た長野県から来た8台の消防の応援部隊。
動く車のかなりの車両は県外ナンバー。倒壊・半壊状態の危険な住宅街で若い自衛隊員が一軒一軒、生存者を確認していた。毎日寒くて寒くて、雪やみぞれが降り、十分な食料も飲み水もない中、自衛隊も警察も消防も病院も役所の職員も、運送業、建設業、小売業、一般の人もどれだけの方々が自己を省みずに支援してくれたことか、感謝の気持ちは一生忘れない。
東日本大震災におきまして被災された方々へお見舞い申し上げます。
また、ご家族やご友人などを失くされた方々へ深く哀悼の意を表します。
平成23年3月11日、午後2時46分、揺れは始まりその強さと長さから、とうとうやってきたと誰もが思った。
1978年6月12日、今から33年前に起こった宮城県沖地震以来、宮城県人はやがて来ると言われ続けて
いたその地震がまさにそれだと思ったのだが、しかし、そうではなかった。
その地震はあまりにも長時間揺れ、その威力に慄き、後の惨状に我が目を疑った。
私はその時、多賀城市にある某所の勤め先におりました。次第に強くなり止まぬ揺れ。職員と受講生たちと
合わせて300人位はおりましたでしょうか。センター内の一番耐震性のある建物に二手に分かれて避難しました。
約40分後、2階から外を見ているとあるはずのないコンテナや物置、角材、丸太、車が押し寄せる波にもまれ、
あれよあれよという間もなく住宅や敷地内の建物の1階を破壊して押し寄せてきました。次から次へと車と材木が
流され、壁にぶつかりドアを破り、やがてはそれらが重なるように積み上げられ・・・あっという間の出来事でした。
水は2mほどにもなり、もはやそこからは出られない状態。しばらくすると誰かが言いました。
「声がした。助けてって。でも姿が見えない。」、「車の中か上に登っているのかもしれない。」、
「街路樹の上に子供がしがみついて助けを求めているようだ。」
「だけど、誰もどうすることもできない。ここからはなんにも見えない。」
津波の水位は下がらず満潮時を迎え、でも明るいうちに出来る限りのことをしようと、緊急用の備品をかき集めて
暖を取れそうなものを探し始めました。カーテンが一枚、布団が一枚、晒がたくさん。誰かのアイディアで晒を切って
テープでつなげシーツのようにして毛布の代わりに。布団は近くから逃げてこられた赤ちゃん連れのご夫婦へ。
耳のご不自由な年配のご夫婦も避難してこられたが、センターで手話が出来る者がおらず状況を伝えることが困難で、
このご夫婦はどんなに不安だったことか。
陽は落ち、ラジオで情報を得ていたがそれも電池切れ。でも幸い技術者が多かったので、ラジオの代用品?を作って
それから情報を得ることが出来ました。真っ暗でとても寒く、飲み水もない。寄り添って暖をとっても寒さはどうしようもなく、
ただ、ラジオがあるだけ。トイレの水もなくなって、ガソリンの混じった津波の水を汲みとり使用しました。
3月なのにこんなに気温が低く、外には雪が降りしきる。聞こえてくるラジオからは各地の被災の様子が伝えられてきました。
でも宮城がすごく少ない。これはもしかしたら被害が大きすぎてその状況が伝わっていないのではないか?
…やはりそうでした。やがてラジオからは「荒浜地区には200〜300の遺体がある模様。」
次々と伝えられる救助要請。私たちもその中に入っていました。真っ暗な建物の中で寒さをこらえていると外の様子に異変があり、
なんと2キロほど先で石油コンビナートが爆発炎上していました。燃え盛る火の海と爆発音。どうすることもできず、
ただそれぞれの家族の安否を気遣い、寒さに耐えて朝を待つだけでした。
朝を迎えても水は全部は引かず、津波が来るという情報もまだ継続されている中、とうとう昼前に「希望者のみ、
自己責任で脱出する」ということになりました。男性たちは急いで教室の各デスクからパソコン機器を取り外し、
幾つものそれらを階下の水の中に沈めて足場を作りました。10数名を残して脱出。最初の水の中への一歩、
氷のように冷たい水でした。冷たいなどと叫ぶ余裕すらなく、ただ前へ前へ足を進める。水圧で歩を進めるのもやっと。
瓦礫やガラスが水中に散乱し、歩道と車道の段差も分からない。縁石にもつまづきそうになる。
最初に水の中に入った時、誰かが私にデッキブラシを手渡し、それを頼りに前方を確認しながら進んだおかげで
仲間も誰一人怪我もすることなく
水から脱出することが出来ました。そこで多賀城市の職員の方から頂いた菓子パンと飲み物を手に車で文化センターまで
送っていただき、その後は各自散り散りにそれぞれの方向へ向かいました。
長女一家、次女一家、長男、また同居の両親、三女たちはそれぞれがばらばらで被災していましたが、全員無事で
家に集合していました。一番最後まで安否がわからなかったのが私。自宅は三方が海に近く、きっと1階部分は浸水して、
下手をすれば半壊か全壊状態だろうと思って帰宅した私の目に映ったのは無事な家と家族の姿でした。
津波は我が家から180m手前で止まっていました。脱出するときに持っていたデッキブラシ、浸水だけで免れていたなら、
泥をかき出すのに絶対必要だと思って手放さなかった私の姿は滑稽でした。トレンチコートを腰までたくし上げて裾を結び、
パンプスは脱げないように裂いた晒でぐるぐる巻きにして真っ黒で泥まみれでした。
家族が無事だったことをどんなに感謝していいのかわかりません・・・・・・。
あの日からもうすぐ2カ月。
震災後に徐々に落ち着きを取り戻してくるとあまりの事の甚大さにいまさらながら恐れを感じずにはいられません。
今回の大震災は未曾有のもの。ひとたび被害のひどい地域に足を踏みいれると、それはまさに地獄絵で、自分が生きている
ことがまるで罪悪のようにさえ感じてしまいます。
親戚縁者も何人か亡くなったりいまだ行方不明で、家を失った人もいます。親しい友人は自らも九死に一生を得、
その大事な家族を3人も失いました。高校時代のカナダ人の恩師は50年間日本で尽し、この地で一生を終えました。
他の友人は勤めていた介護施設の入居者を首まで津波につかりながらも一人の死者も出さずに守りぬきました。
息子も出張の帰りに津波に遭い無事だったものの、車で流されてきたご夫婦と赤ちゃん、男性らを5人引っ張り上げて
救助してきたそうです。これらはみな、私が勤めていた場所からわずか数100メートルから2〜3キロの範囲内で起こった事でした。
あの日のあの時間までは誰もが普通に仕事をしたり生活していたはず。一体何がこのように人々の人生を分けてしまったのか、
知る術はありません。残された者たちが少しでも誰かの笑顔の手立てになることを心から祈っています。
平成23年5月5日
水が引いた数日後の様子
塩釜魚市場付近
塩釜市北浜付近 この辺りは壊滅状態
塩釜市北浜付近 県営アパート前
国道45号線上に打ち上げられた家
七ヶ浜町菖蒲田浜を望む
穏やかな景色のはずだった場所は今や瓦礫の山。
丘から臨んだ瞬間、絶句以外の何物もなかった。
この地区の山の上に住んでいた叔父や知り合いは
そこで命を落とした。
当時の勤め先駐車場。 数百台の車が停めてあったのに全てが流されて1台も残っていなかった。
流された車両は敷地のフェンスを押し倒し、向かいのソニー前に積み上がっていた。